2021-05-16

永井荷風『曇天』The Cloudy Sky by Kafu NAGAI


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E-Text from Aozora bunko

曇天 
 永井荷風  

  衰残、憔悴、零落、失敗。これほど味い深く、自分の心を打つものはない。暴風に吹きおとされた泥の上の花びらは、朝日の光に咲きかける蕾の色よりも、どれほど美しく見えるであろう。捨てられた時、別れた後、自分は初めて恋の味いを知った。平家物語は日本に二ツと見られぬ不朽のエポッペエである。もしそれ、光栄ある、ナポレオンの帝政が、今日までもつづいていたならば、自分はかくまで烈しく、フランスを愛し得たであろうか。壮麗なるコンコルトの眺めよ。そは戦敗の黒幕に蔽われ、手向の花束にかざられたストラスブルグの石像あるがために、一層偉大に、一層幽婉になったではないか。凱旋門をばあれほど高く、あれほど大きく、打仰ごうとするには、ぜひともその下で、乱入した独逸人が、シュッベルトの進行曲を奏したという、屈辱の歴史を思返す必要がある。後世のギリシヤ人は太古祖先の繁栄を一層強く引立たせる目的で、わざわざ土耳古人に虐げられていたのではあるまいか、自分は日本よりも支那を愛する。暗鬱悲惨なるが故にロシヤを敬う。イギリス人を憎む。エジプト人をゆかしく思う。官立の大学を卒業し、文官試験に合格し、局長や知事になった友達は自分の訪ねようとする人ではない。華族女学校を卒業して親の手から夫の手に移され、児を産んで愛国婦人会の名誉会員になっている女は、自分の振向こうとする人ではない。自分は汚名を世に謳われた不義の娘と腕を組みたい。嫌われたあげくに無理心中して、生残った男と酒が飲みたい。晴れた春の日の、日比谷公園に行くなかれ。雨の降る日に泥濘の本所を散歩しよう。鳥うたい草薫る春や夏が、田園に何の趣きを添えようか。曇った秋の小径の夕暮に、踏みしく落葉の音をきいて、はじめて遠く、都市を離れた心になる…… 
 自分は何となく気抜けした心持で、昼過ぎに訪問した友達の家を出た。友達は年久しく恋していた女をば、両親の反対やら、境遇の不便やら、さまざまな浮世の障害を切抜けて、見初めて後の幾年目、やッとの事で新しい家庭を根岸に造ったのだ。その喜ばしい報道に接したのは、自分が外国へ行ってちょうど二年目、日本では梅が咲く、しかしかの国ではまだ雪が解けない春の事で、自分は遠からず故郷へ帰ったならば、何はさて置き、わが出発の昔には、不幸な運命に泣いてのみいた若い男、若い女、今では幸福な夫と妻、その美しい姿を見て、心のかぎり喜びたいと思っていた。しかし自分はどうした訳であろう。ただ何という事もなくがっかりしたのだ。一種の悲愁と、一種の絶望を覚えたのだ。ああ、どうしたわけであろう。どうしたわけであろう。
  毎日の曇天。十一月の半過ぎ。寂とした根岸の里。湿った道の生垣つづき。自分はひとり、時雨を恐れる蝙蝠傘を杖にして、落葉の多い車坂を上った。巴里の墓地に立つ悲しいシープレーの樹を見るような真黒な杉の立木に、木陰の空気はことさらに湿って、冷かに人の肌をさす。
  淋しくも静かに立ち連った石燈籠の列を横に見て、自分は見晴しの方へと、灰色に砂の乾いた往来の導くままに曲って行った。危い空模様の事とて人通りはほとんどない。ところどころの休茶屋の、雨ざらしにされた床几の上には、枯葉にまじって鳥の糞が落ちている。幾匹と知れぬ鴉の群ればかり、霊廟の方から山王台まで、さしもに広い上野の森中せましと騒ぎ立てている。その厭わしい鳴声は、日の暮れが俄かに近いて来たように、何という訳もなく人の心を不安ならしめる。自分は黒い杉の木立の間をば、脚袢に手甲がけ、編笠かぶった女の、四人五人、高箒と熊手を動し、落葉枯枝をかきよせているのをば、時々は不思議そうに打眺めながら、摺鉢山の麓を鳥居の方へと急いだ。掻寄せられた落葉は道の曲角に空地も同様に捨てられた墓場の隅、または赤土の崩れから、杉の根が痩せひからびた老人の手足のように、気味わるく這い出している往来際に、うず高く積み上げられ、番する人もなく、燃るがままに燃されている。しかし閃き出る美しい焔はなくて、真青な烟ばかりが悩みがちに湧出し、地湿りの強い匂いを漲らせて、小暗い森の梢高く、からみつくように、うねりながら昇って行く。ああ、静かな日だ、淋しい昼過ぎだ、と思うと、自分は訳もなく、その辺に冷たい石でもあらば腰かけて、自分にも解らぬ何事かを考えたくて堪らなくなった。
  しかし突然、道は開けて、いそがし気に車の馳せ過ぎる鳥居前の大通りに出た。大通の両側、土手の中腹のそこここに、幾時代を経たとも知れぬ松の大木がある。松の大木はいかなる暴風、いかなる地震が起っても倒れはせぬ。いかなる気候の寒さが来ても枯れはせぬと云わぬばかり、憎々しく曇天の空に繁り栄えて、自分がその瞬間の感想に対して、驚くほど強い敵意を示すものの如く思われた。すると、その憎らしい幹の間から、向うに見下す不忍の池一面に浮いている破れ蓮の眺望が、その場の対照として何とも云えず物哀れに、すなわち、何とも云えず懐しく、自分の眼に映じたのである。敗荷、ああ敗荷よ。さながら人を呼ぶ如く心に叫んで、自分はもはや随分歩きつかれていながらも、広い道を横切り、石段を下りて、また石橋を渡った。
  雨に剥げた渋塗りの門をくぐって、これも同じく、朱塗りの色さめた弁天堂の裏手へ進んで行くと、ここにも恐しいほどな松の大木が、そのあたりをば一段小暗くして、物音は絶え、人影は見えない浮島のはずれ。自分はいいところを見付けたと喜んで、松の根元の捨石に労れた腰を下した。松の根は巌の如く、狭い土地一面に張り出していて、その上には小さい木箱のような庚申塚、すこし離れて、冬枯れした藤棚の下には、帝釈天を彫り出した石碑が二ツ三ツ捨てたように置いてある。蜘蛛のようにその肩から六本の手を出したこの異様な偶像は、あたりの静寂を一層強めるばかりでなく、その破損磨滅の彫刻が、荒廃の跡に対して誰れもが感ずる、かの懐しい悲哀をも添えるのである。
  空気は上野の森中よりも、一層湿気多く沈んでいる。今ではひろびろと遮るものなく望まれる曇った空は、暗い杉や松の梢の間から仰ぎ見た時よりも、一段低く、一段重く、落ちかかるように濁った池の泥水を圧迫している。泥水の色は毒薬を服した死人の唇よりも、なお青黒く、気味悪い。それを隔てて上野の森は低く棚曳き、人や車は不規則にいかにも物懶くその下の往来に動いているが、正面に聳える博覧会の建物ばかり、いやに近く、いやに大きく、いやに角張って、いやに邪魔くさく、全景を我がもの顔にとがんばっている。ああ、偉大なる明治の建築。偉大なる明治の建築は、いかにせば秋の公園の云いがたい幽愁の眺めを破壊し得らるるかと、非常な苦心の結果、新時代の大理想なる「不調和」と「乱雑」を示すべきサンボールとして設立されたものであろう。その粗雑なる、豪慢なる、俗悪なる態度は、ちょうど、娘を芸者にして、愚昧なる習慣に安んじ、罪悪に沈倫しながら、しかも穏かにその日を送っている貧民窟へ、正義道徳、自由なぞを商売にとて、売りひろめに来た悪徳新聞の記者先生の顔を見るようだ、と自分は思った。
  自分は実際心の底から、その現代的なるを嘆賞する。同時に自分は、現代的なるこの建築の前に、見るも痛ましく枯れ破れた蓮の葉に対しては、以前よりも一層烈しい愛情を覚えた。日本の蓮は動し難いトラジションを持っている。ギリシヤの物語で神女が戯れ浮ぶ水百合とは違う。五重の塔や、石燈籠や、石橋や、朱塗の欄干にのみ調和する蓮の葉は、自分の心と同じよう、とうてい強いものには敵対する事の出来ない運命を知って、新しい偉大な建築の前に、再び蘇生する事なく、一時に枯れ死して、わざわざ、ふてくされに、汚い芥のようなその姿を曝しているのであろう。
  曇った空は、いよいよ低く下りて来て、西東、何方へ吹くとも知れぬ迷った風が、折々さっと吹き下りる。その度毎に、破れた蓮の葉は、ひからびた茎の上にゆらゆら動く。その動きを支え得ずして、長い茎はすでに真中から折れてしまったのもたくさんある。揺れて触れ合う破れ葉の間からは、ほとんど聞き取れぬほど低い弱い、しかし云われぬ情趣を含んだ響が伝えられる。河風に吹かれる葦の戦ぎとも、時雨に打たれる木葉の呟きとも違って、それは暗い夜、見えざる影に驚いて、塒から飛立つ小鳥の羽音にも例えよう、生きた耳が聞分けるというよりも、衰えた肉身にひそむ疲れた魂ばかりが直覚し得る声ならざる声である。   真珠のような銀鼠色した小鳥の群が、流るる星の雨の如く、破れ蓮にかくれた水の中から、非常な速度で斜めに飛び立った。空の光を受けた水の面の遠い処は、破れ蓮の間々を、眩しいほどに光っている。その光の増すにつれ、上野の森は次第に遠く見え、その上の曇った空は怪しくも低くなり、暗くなって行く。冬の夕暮が近付いて来たのだ。野鴨が二三羽、真黒な影かとばかり、底光りする水面に現れて、すぐまた隠れてしまった。けたたましい羽音と共に、烏の群れが、最初は二羽、それから三羽四羽と引きつづいて、自分の頭の上の松の木にとまって啼き出した。それに応えて、上野の森の方からは、なおも幾羽と知れず、後を追って飛んでくるらしい。松の実が二ツばかり、鋭い爪に掴まれた枝から落ちて、ピシャリと水の上に響いた。水の上に映っている沈静したすべての物の影が、波紋と共にゆらゆら動いて、壁紙の絵模様のようになる……。面白い眺である。しかし自分は余りに騒がしく鳴き叫ぶ烏の声に急き立てられて、ついに水際の捨石から立上らねばならなくなった。
  自分は今日始めて見る、名ばかし美しい観月橋をば、心中非常な屈辱を感じながらも、仕方なしに本郷の方へと渡って行く。四五日ほども引続いて、毎日曇っていた冬の空は、とうとう雨になった。満池の敗荷はちょうど自分の別れを送る音楽の如く、荒涼落寞の曲を奏ではじめる。自分は外套の襟を立て返したばかりで傘はささず、考えるともなく、池と森とを隔てて、今日の昼過ぎ訪問した根岸の友達の事を考えながら歩いた。
  池にのぞむ人家にはもう灯がついている。それが美しく水に映る。自分はありあり友達夫婦の額を照らす、ランプの火影を思い浮べた。火影は実に静かである。静かであるだけ、いかにも鈍い、薄暗い。ああ、恋の満足家庭の幸福というものは、かくまで人間を遅鈍にするものだろうか。一時二人の結婚は到底不可能だと絶望していた時分、二人はまだ外国へ旅立たなかった自分の書斎を、せめてもの会合場にしていた。その頃、彼の女の若い悲しい眼の中には、何という深い光が宿っていたであろう。彼の男の光沢ある唇から出る声の底には、何という強い反抗の力が潜んでいたであろう。ああ、その頃二人は、いかに月の光を愛したか、いかに花の散るのを見て悲んだか。二人は自分と共々、青春に幸多い外国の生活、文学、絵画、音楽、社会主義、日々起る世間の出来事、何につけても、活々した感想を以てそれらを論じた。わずか数年の後、恋の満足を遂げてしまった二人の男女は、自分が質問する日本の衣服の、その後における流行の変遷さえ多くは語らなかった。目下妊娠していて子供が男子であってくれればよいという事ばかり云っていた。夫は勤めている会社に、このまま、おとなしくさえしていれば、将来生活にこまる事はない。妻は下女のいいのが無くってこまるという事を話した。
  ああ、二人の胸には堪えがたい過去の追想も、止みがたい将来の憧憬もなくなったのだ。今頃二人は、時雨の音する軒の下で、昼過ぎ自分に話したような、同じ事を繰返しながら、ランプの光のかげに日本の習慣とてさも忙し気に、晩飯をかき込んでいるのであろう。
  自分はこれから何処に行こうか。雨はさかんに降ってくる。上野の鐘が鳴る前世紀の人達が幾百年聞き澄ましたそれと同じ寂滅無常の声。この声に促されて、東洋の都市は歓楽もなく、哀傷もなく、ただ寝よ、早く寝よ、夢さえ見る事なく寝よとて暗くなって行くのだ。自分は、ヴェルレーヌの一句を思付いた。自分は日本の国土に、「あまりに早く生れ過ぎたか。あまりに晩く生れ過ぎたか。」

2021-05-02

正宗白鳥『武州公秘話』" On Secret life of the lord of Bushu by Tanizaki " by Hakucho MASAMUNE



This recording was made possible by the support at Patreon, where you'll find my short introduction to this essay.

谷崎潤一郎の描く特殊な愛欲の型を、正宗白鳥が解説します。
この朗読を可能にしてくれたPatreonのサポーターの皆様に感謝の意を表します。


Transcript - text from Aozora Bunko

武州公秘話
 跋
 正宗白鳥

 「蓼喰う蟲」以後の谷崎君の作品は、残りなく通読しているつもりでいたが、この「武州公秘話」だけにはまだ目を触れていないのであった。谷崎好みの題材を谷崎式手法で活写しているだけで、この怪異な物語に私は驚かされはしなかったが、この老作家の老熟した近作中でも、筆が著しく緊縮していることが特に感ぜられた。のんびりしたところが皆無で窮屈そうである。似寄った変型愛慾の描写にしても、青年期のものには、わざと面白がっているところ、ふやけているところ、筆先の遊びに過ぎないようなところが見え透いていたが、この作品にはそういう稚気が無くなっている。シリアス過ぎるくらいシリアスである。普通人の愛慾心理も押詰めて行ったら、こういう境地にも到達するのであろうかとは思われた。
 谷崎君の他の小説についてそう思ったことはなかったが、この小説の筆致は、私をして雨月物語を連想させた。しかし、上田秋成はあの時分の作家だから、こういう題材を扱っても、お座なりの道徳的訓戒をくっつけるくらいで、何でもなしに事件と光景を描叙するだけであったであろう。谷崎君は概して心理研究者の態度を執っている。武州公をして自己反省をさせている。「心の奥底に、全く自分の意力の及ばない別な構造の深い/\井戸のようなものがあって、それが俄かに蓋を開けた」など、作者の説明が少くない。作者の心に映る幻影を幻影として写す秋成の態度と、心理批判を棄て得ない谷崎君の態度に、私などは時代の相違を見るので、必しも一を是とし一を非とするのではない。武州公は現代人の姿をもって現われているのである。
 「首に嫉妬を感じ」「生きて彼女の傍にいるという想像は一向楽しくなかったが、もしも自分があのような首になって、あの女の魅力の前に引き据えられたら、どんなに幸福だか知れない」なんて考えるのは、奇怪なようだが、首斬りを人生の大事業とし、首斬りに絶大な歓喜を覚えていた戦国時代には首という者に、たとえ斬られた後にでも、生命が宿っていると思われていたのだ。歌舞伎年代記などに記載されているが、昔の芝居には、獄門首が恨みを述べたり、親子の名乗りをしたりするのは、普通の事件で、見物がそういうものを喜んでいた。道阿弥の首を賞翫しながら、若夫婦が蚊帳の中の寝床で盃の遣り取りをするのも、草双紙の趣向にもありそうなことである。相手の男を柱に縛りつけ、その鼻先の畳の上に白刃を突立て女に酌をさせながら一人で得意になっている光景を描いた芝居絵を、私は見たことがあった。縛られた男はその縛られ振りにも顔面の表情にも道化味があらわれていた。
 それで、「武州公秘話」は、ちょっと見ると、徳川末期趣味を髣髴とさせているが、その趣味だけに停滞しないで、愛慾心理を追窮しているところに作者自身が意識するしないに関わらず、シリアスな感じが読者の心に伝わるのである。
 永井荷風君は、青年期にフランス文化を羨望し、フランス趣味に魅惑されたので、今なおその痕跡を留めているにしても、江戸末期の文化や趣味に寂しい愛着を感ずることによって、自己の詩境を豊かにしている。谷崎君は平安朝の文学の清冽な泉によって自己の詩境を潤おしているとゝもに、江戸末期の濁った趣味を学ばずして身に具えている。日本の古典としての醇粋味は平安朝文学に漂っているので、私などは、谷崎君の作品のうちでも、その風格を伝えたものを一層愛好する訳だが、谷崎君が平安朝古典の継紹者だけに留っていたら、その作品は、無気力になる弊があったかも知れない。刺戟の乏しい退屈なものになったかも知れない。江戸末期趣味もこの作者には効果ある働きをしているのだ。
 由来、日本の文学者は描写が傑れていないと私は思っている。徳川末期文学には溌溂たる描写がことに欠けている。自然と人事との交錯する或光景の描写の不思議にうまいのは、「源氏」「枕」「大鏡」などの、平安朝ものに見られるのだ。「武州公秘話」のうち、法師丸が老女に連れられて、敵の首に装束をしている婦女子の部屋を訪ずれるあたり、織部正が曲者に鼻をもがれるあたり、異様な光景の叙事たるに留まらず、或幻影の印象が読者の心に残るのは、この作者が平安朝古典伝来の描写力を有っているためであろう。西洋の近代小説の形式を採らず、自国の物語の体裁を好んで用いんとするのは、この作者近来の傾向であるらしいが、物語が自ら描写になったら日本文学として至極の境地であると、私は思う。永井君の作品では、「榎物語」が、そういう意味で逸品であると私は思う。
 鼻については、芥川君の小説も思出されたが、それよりも、ゴーゴリの「鼻」が思出された。理髪師によって削取られた或男の鼻が、官吏の礼服を着けていろんな所に出没するという、甚だ巫山戯た小説であるが、そこにシリアスな人生観察が宿っていそうに推察される。手が無くっても、足が無くっても、或は目が無くっても、人間はまだしも忍び得られるのだが、さして必要のなさそうな鼻が無くっては最も汚辱を感じるのだ。鼻の無いほど人間を醜悪にし滑稽にするものはない。「鼻の缺けた首」は醜悪滑稽の象徴である。自分の魂を「鼻の缺けた首」としてしまって、美女と二人きりで甘美な夢の国に遊びたいという武州公の願望は、これを解釈すると、善も美も道徳も、気取りもお体裁も、すべての常套的束縛を脱却し、第三者の目には「鼻の缺けた首」同様、醜とも滑稽とも見えることを、顧慮しないで、思う存分に生を楽みたいことを意味しているのだ。美女美男のお上品な愛撫ではまだ物足りない。自分が醜悪滑稽の底をつくして、美女の愛撫を受けることを妄想して舌なめずりする男性の気持が「鼻の缺けた首」礼讃となって、象徴的に現わされているのである。……読者諸君。そう思って武州公の奇怪な願望や行動を心に映じて見るべし。自分自身の心の影が武州公の心の上に見られるかも知れない。

2021-03-27

寺田寅彦「夏目先生の自然観」Soseki's View on Nature by Torahiko TERADA



" In Soseki's heart, nature and people are interwoven with." Torahiko observes.

2021-03-13

柳田國男について On Kunio YANAGITA (short introduction)


This recording was made possible by the support from my club 南風舎 at Patreon.
このエピソードは、私の私的文学クラブの皆様の応援によります。ここに感謝の意を表します。

Transcript

皆様こんにちは。いかがお過ごしでしょうか。

「その発祥から屍臭の漂う学問であった」、と三島由紀夫が言う学問は何かご存知ですか。シシュウと言うのは、ここでは死んだ人の身体、屍の臭いの事です。答えは民俗学です。今回は、日本人の魂を追ったフィールドワーカー、民俗学の父と呼ばれる柳田國男を紹介したいと思います。


柳田國男は1875年に兵庫県に生まれました。泉鏡花より二歳、年下です。子供の頃、医者で文学好きな親戚がいて森鴎外と友人だったので、森鴎外の家に遊びにいったりしていました。甘党の森鴎外のうちで出るお菓子が、柳田少年には魅力だったようです。

柳田國男は40代半ばまで、エリート高級官僚として働きながら、地方を旅して日本の民話や風習を調べました。

それでは柳田國男の作品を紹介します。


『遠野物語』 初版350部限定で自費出版されました。当時十八歳だった芥川龍之介はこれを読んで、柳田國男の愛読者となったようです。書痴と言われるまでの愛書家であり、中国人で日本に留学していた周作人もこれを入手して高く評価しています。

遠野物語は、佐々木喜善が柳田國男に故郷の遠野で見聞きしたことを、現在の事実として語った、それを忠実に書き起こしたものだという説明から始まります。因みに佐々木喜善は日本の昔話を集め、のちに「日本のグリム」と呼ばれるようになります。

遠野物語は格調高い文語体で書かれているので、読むのがちょっと難しい。しかし文語には口語体には無い独特の力があるので、柳田國男はあえてこの文体を選んだようです。確かに柳田國男の文語は、口語にはない雰囲気を伝えてきます。三島由紀夫はこの作品を小説として長年読んでいいて、興味深い紹介文を残していますので、今度読みたいと思います。


『書物を愛する道』 ここに書かれている、「本を読むということは、大抵の場合には冒険である」と言うのには全く同感です。ところで昔は、本の外観や色から内容の検討がついたのが便利だったというのは面白い。例えば地方に行って本屋で占めている色を見れば、その場所の知的・文化レベルをある程度察する事が出来たというわけです。


『故郷七〇年』 柳田國男がどういう風に育ち生きて来たかを、その時分の背景と共に語ります。文学の思い出や交友録には、泉鏡花や森鴎外、尾崎紅葉が出てきて楽しいものになっています。

 

 ではまた。

2021-03-06

Introducing my club at Patreon - 南風舎


Hello, Kasumi Kobayashi here. 
Today, I’d like to introduce my Patreon club, 南風舎. 

Patreon site is the only place I’m expressing my feelings and emotions, together with readings. And keeping all of my new audiobooks. 

Spoiler alert ! The main language is Japanese and it costs about a cup of tea, 3 USD in a month. 
I’m limiting membership up to 47 to void making it so called side-business. 
22 seats are taken by generous listeners as of today. 

If you’d like more longer readings, please visit my Patreon site. Although I’m not photogenic, I sometimes post a video as bonus contents. 

See you soon !

2020-12-14

宮沢賢治『雨ニモマケズ』 Be not Defeated by the Rain by Kenji MIYAZAWA


This recording was made possible by the supporters at my private club.


雨ニモマケズ 
風ニモマケズ 
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ 
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ 
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ 
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ 
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病氣ノコドモアレバ 
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ 
行ッテソノ稻ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ 
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ 
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

https://en.wikipedia.org/wiki/Ame_ni_mo_Makezu

2020-10-15

Introducing "Japan Experts" Podcast by Miyuki SEGUCHI


Transcript


Hello, I’m Kasumi Kobayashi. Thank you for listening Japanese classical literature audiobooks. 

Today, I’d like to introduce a new podcast created by Mme Miyuki Seguchi, who is a journalist and licensed guide. A couple of days ago, I had a chat with her and was impressed by her passion for exploring and sharing Japanese culture worldwide. 


My dear listeners, Japanese tradition is declining and approaching its extinction parallel to its aging population. Many skilled masters of traditional arts and crafts have no heir. 


But the hope is, we have an ardent person like Miyuki, who is excellent in presenting authentic - still alive - tradition in Japan ! If you are interested and eventually visit Japan to go to, for example, Japanese Puppet Theatre 人形浄瑠璃, you’d save it from disappearance. 


Her podcast, Japan Experts, is reachable via iTune and other platforms.

https://anchor.fm/japan-experts

Thank you for listening and have a good day !